On the solo exhibition “Beautiful Dream” at the Maho Kubota Gallery
In front of fabricated materials
Tada Keisuke is interested in the experience of digital imagery, in particular the bizarre way in which textures and polygons are by no means indivisible in the 3D spaces of video games. In digitally fabricated 3D spaces, what appear to be physical objects are not endowed with content or weight. This is revealed frequently by the phenomenon of “coming out the other side of the polygons” when a player, or camera that captures the object, behaves in a manner not envisaged by the game developer. There an object that at least looked real becomes what appears to be just an image of that object, stuck on a paper-thin flat surface. The experience of digital imagery imparts a sense of the divisibility of texture and polygons, ie, that “what appears to be there is not actually what it seems.” This sensation connects at a fundamental level to the faint feeling of floating, the loss of equilibrium when viewing Tada’s works, where wooden boards one would expect to form the floor, stand up to form walls.
Paintings have this same sense of what appears to be there, not being what it seems. While rendering the genuine article in pencil or pigments as if it were right there, they simultaneously show that this is merely charcoal or paints on paper or canvas.
Tada’s walls lined with wooden planks and tiles, however, do not appear to generate such painterly illusions of making something look like something it is not. Meaning these are not “renderings” of boards or tiles, but first and foremost, physically planks and tiles.
The astounding thing about these works however, is that both wooden boards and tiles, and even screws and chains, are all made from paint.
Yes, you read that correctly. Not metaphorically but literally, physically made from paint. On becoming aware of this, you will probably notice that the grain on the wood is actually repeated, revealing these boards to be molded duplicates.
And you may find yourself laughing at the sheer... audacity? Sheer something of it. On considering how much paint has been consumed here, and how much time, you come to realize the extraordinary nature of Tada’s endeavor.
In Heaven’s Door, as if to show that the inside is paint, the color of the paint can be seen through marks in the doors.
There, the physical properties of the paint manifest incidentally, as “a different way of breaking due to the lack of grain” through the splitting of the doors with an ax. The paint may be only the material, but the glowing, fluorescent nature of its coloring makes it appear to be just slightly adrift from its presence as a physical entity.
Tada does not appear to hold to any belief in something being paint “as proof of the existence of a painting.” The works simply placed before us are without a doubt “pretend somethings made from paint.” What should we “see” them as? That is up to the viewer.
Review by gnck_
MAHO KUBOTA GALLERYでの個展「Beautiful Dream」について
仮構された物質の前で
多田は、デジタル画像の経験、特にゲームの3D空間において、テクスチャとポリゴンが決して不可分で「無い」ことの奇妙さに関心をもっているという。デジタルに仮構された3D空間では、物理的なオブジェクトかに見えるそれらには、中身や重さが与えられていない。それは、プレイヤーやそれを捉えるカメラが開発者の想定外の挙動をすることでしばしば「ポリゴンの裏側に抜けてしまう」という事象が発生することによって、あからさまになる。そこには、ひとまずは現実と同じように見えていたはずのオブジェクトが、厚み0のペラペラの板にそれらしい画像が貼り付けてあるだけである。デジタル画像の経験は、テクスチャとポリゴンの可分性、つまり「見えているそれらしいものが、実際にそれそのものではない」という感覚を与える。その感覚は、本来床面であるはずの木の板が直立し、壁となっている多田の作品を鑑賞する際の、平衡感覚が狂う、かすかな浮遊感と通底する。
絵画には、「見えているそれらしいものが、実際にそれそのものではない」という感覚がある。鉛筆や絵の具によって、まるでそこに本物があるかのように描きながら、しかしそれが紙やキャンバスの上の炭や絵の具でしかないことも同時に示す。
多田の作品の、木の板やタイルが貼り付けられた壁面はしかし、そのような絵画的なイリュージョン――「本来そうでないものを、何某かに見せる」――ということは発生していないように見えるだろう。それらは、木の板やタイルを「描いた」のではなく、まず物理的に木の板やタイルなのだと。ところが恐るべきことに、木の板も、タイルも、ビスや鎖までも、これらすべては絵の具から出来上がっている。
一瞬文意が取れないだろうか。これは比喩ではなく、文字通り、物理的に絵の具から作り出されているということだ(そのような目で見れば、実は木の板の木目が繰り返されているところも発見できるだろう。つまり、これらは型取りされて、複製されたものであることを示している)。これは、あまりにも、なんというか、笑ってしまう。そこに膨大に消費された絵の具の量、その手間を考えれば、それがいかに異常な所業なのか分かるだろう。
《Heaven's Door》では、内部が絵の具であることを示すように、扉の傷からは絵の具の色が覗く。そこでは斧で叩き切られることによって図らずも、絵の具の物理的な特性が「木目がないことによる壊れ方の違い」として現れている。絵の具は飽くまでも物質であるのだが、その色味が光があふれるかのような蛍光色であることによって、物理的な存在であることから少しだけ浮遊しているように見える。
多田は、「絵画の存在証明として、絵の具であること」について信仰をもっているわけではないようだ。ただ眼前に提示される作品が、「絵の具によって作られる、見せかけの何某か」であることには違いない。これを何と「見れば」よいのか。それこそが鑑賞者に問われている。
評論家 gnck
RHIZOMED MATERIAL
Virtual space–that magical other world we can only access through screens and devices— is a dimension unbound by the laws of physics. We can bypass space and time to enter any virtual space we want at any time we want, and we can create virtual realities in video games and metaverses that can’t exist in our physical world. It seems to be a realm of total freedom that extends into infinity; what at one point we might have called utopia, or heaven.
The great paradox in regards to virtual realities, particularly those of the fantastical sort in video games, is that while they may transcend the limits of our material realities, they are fated to remain physically impossible and forever out of reach. Going back and forth between virtual and physical environments is essentially a metaphysical exercise. Someone who engages in this activity continuously will eventually be confronted with the question: what is reality? And what does it mean to truly exist?
This is the question that motivates Keisuke Tada’s practice, and forms the underlying theme of the works in Rhizomed Material. The exhibition features a continuation of his “trace/dimension” series. The sculptural paintings, which seem to look like glitchy collages of three-dimensional tiles, wooden floorboards, metal drawers, and chains, are in fact made completely of acrylic paint. These mundane items often appear in the CGI worlds that Tada frequents, where, despite the outward appearance of decay in, for example, the rusting chains and splintering panels, they remain immortal, stuck suspended in the eternity of a timeless virtual reality.
“Virtual spaces are constituted differently to the real world, earthbound time and gravity having no impact. Here, it feels as if existence itself is floating. I started making these works out of a desire to express this uncertain way of being that one is unsure whether to describe as existing, or not existing,” says Tada. “Assuming that the "space that extends behind the screen" is infinite, to physicalize an object or image from a virtual space is to transport it into a material, finite world, which will one day decay and disappear. What I want to do is to explore the space between existence and non-existence, so I want my works to be in both a state of life and a state of death– to have aspects of both.”
The title of the exhibition, Rhizomed Material, is a reference to the philosophical term “rhizome” originated by French theorists Gilles Deleuze and Felix Guattari, who used the plant’s structure to represent the concept of nonlinear networks of thought. Unlike hierarchical, tree-like methodologies that existed before, they conceived of things as rhizomatic, with “no beginning or end; always in the middle, between things, interbeing, intermezzo." By forcibly pulling these virtual objects into the physical world, Tada compels us to ruminate on where the root of their existence lies. Perhaps the root is not a single point, but, as Deleuze and Guattari said, a rhizome with no beginning or end; and “true” existence is not a binary of being and not being, but something that is defined by all the liminal, in-between spaces that constitute our interconnected world.
Erika Dreskler
RHIZOMED MATERIAL
バーチャル空間ーー私たちがスクリーンやデバイスを通してしかアクセスできない別世界ーーは、物理法則から自由な次元です。私たちは空間と時間を迂回して、いつでも好きな時に好きなバーチャル空間に入ることができます。また、ビデオゲームやメタバースの中では、物理的な世界には存在しえない仮想現実を作り出すこともできます。それは、かつてユートピアや天国と呼ばれたような、無限に広がる完全な自由の領域のようにも思われます。 仮想現実、特にビデオゲームに見られるような空想的なそれに関する大きなパラドックスは、その世界の中では物質的な現実の限界を超越することはできても、実世界においては物理的に不可能で、永遠に手の届かない存在であり続ける運命にあるということです。バーチャルな環境とフィジカルな環境を行き来することは、本質的には形而上学的な行為であると言えます。このような実践を続けていると、やがて「現実とは何か?そして、存在するとはどういうことなのか?」という問いに向き合わざるをえなくなるでしょう。
こうした問いが多田圭佑の実践の原動力であり、「Rhizomed Material」の作品の根底にあるテーマです。本展では、多田の「trace/dimension」シリーズの続編が展示されます。タイルや木製の床板、金属製の引き出しや鎖などがグリッチ状に組み合わさって見える多田の立体的な作品は、実際にはアクリル絵具のみによって作られています。これらのありふれたモノたちは、多田が頻繁に訪れるCGIの世界にしばしば登場します。そこでは、たとえば錆びた鎖や割れたパネルなど、外見上は朽ち果てているように見えるにもかかわらず、それらは不滅のままであり、時間を超越した仮想現実の永遠の中に宙吊りにされたままとなっています。
「バーチャル空間、実世界とは違う組成で作られたものであることは言うまでもない。そしてこの世界は地球の重力や時間の影響を受けないのだ。 そこでは、存在することそのものが浮遊しているかのように感じられる。 この存在していると言うべきか、していないと言うべきか、その不確かなあり方を表現したいと思い制作し始めた作品だ。 」と多田は述べています。「『画面の奥に広がる空間』を無限と仮定すると、バーチャル空間上のものやイメージをフィジカル化するのは、物質的有限の世界へ変換することになりますので、いつかは朽ちて無くなるでしょう。私のやりたいことは、端的に言ってしまうと存在、非存在のあわいを探ることなので、私の作品は生の状態、死の状態、両方の側面を持っている状態にしたいと思っているのです。」 本展のタイトル「Rhizomed Material」は、フランスの理論家ジル・ドゥルーズとフェリックス・ガタリが提唱した哲学用語「リゾーム(根茎)」にちなんだものです。彼らは植物の構造を用いて、非線形的なネットワーク型の思考の概念を提示しました。それ以前に考えられていた階層的でツリー型の方法論とは異なり、彼らは物事を根茎のように、「始まりも終点もない、いつも中間、もののあいだ、存在のあいだ、間奏曲 intermezzo なのだ」と捉えていたのです。仮想現実内に存在するモノを物理的な世界に無理やり引きずり込むことで、多田はその存在の根源がどこにあるのかを私たちに反芻させます。おそらくその根はある一点ではなく、ドゥルーズとガタリが言うように、始まりも終わりもない根茎なのでしょう。そして「真の」存在とは、「ある」「ない」の二元論ではなく、私たちの相互に絡まり合った世界を構成するすべての境界、中間的な空間によって定義されるものなのかもしれません。
エリカ・ドレスクラー
積層する空間――折り重なるキューブ
中尾拓哉(美術評論家/芸術学)
直線を引く。続いてもう一本、その線に直交する直線を引く。さらに、それらの二つの線に直交する直線を引く。すると、座標空間にx軸、y軸、z軸ができる。多田圭佑の作品がx軸、y軸のつくる平面にあると仮定して、z軸上に自分自身の立ち位置のある空間を思い描いてみる。
空間の認識は、自己の認識でもある。自分がどこにいるのかという問いは、自分が誰なのかという問いにつながっている。空間の中の位置は、そのまま自己の位置ともなる。近代的な自我は、座標空間の中心である原点Oと重なっているのだ。Oは“origin”であり、(x, y, z)の座標上で(0, 0, 0)の位置となる。
多田の作品はそうした座標空間自体を複製し、幾重にも重ね合わせているようである。そうであれば、それを認識する自己の位置もまた複製され、幾重にも重なり合うことになるのだろうか。
1 展示空間
まず、展示空間である。展示空間は現実空間である。平面作品であれば、それは基本的には目前の壁に設置されている。作品が掛けられる展示空間がホワイトキューブであれば、壁は白く、設定上はその空間は非空間的な無色透明、という状態で認識されることが求められる。当然、白壁以外にもあらゆる壁が想定されるが、展示空間は、生活空間から切り離され、整理されているため、日常的な空間と比較して、異質であると感じられることが多い。こうした境目を意識させない展示空間もある。いずれにせよ、多田の作品の位置は壁(x, y)にあり、自己の位置は床(z)にある。この自己の位置を原点Oとし、鑑賞者は平面作品と対峙する位置を定めるのである。
2 絵画空間
西洋では古くから、絵画は「開いた窓」であると考えられてきたように、絵の中には平面の向こう側へと広がる空間が設定されている。もし、目前の絵画の中に一点透視図法で描かれた空間があれば、現実空間と同様、自己の位置を原点Oとするような座標空間が広がっているだろう。現実空間と絵画空間が同じように設定される18世紀の西洋で描かれた風景画であれば、展示空間(x, y, z)に置かれた自己の位置を、絵画空間(x, y, z)の中に移すことができるかもしれない。歩行、散歩、あるいは旅は、哲学的な思索と結びついている。鑑賞者は展示空間に立ち、旅人となって絵画空間の中に入る(没入する)。
3 バーチャル空間
絵画空間が絵画のモチーフとなった現実の風景なのであれば、鑑賞者が歩いているのは想像の中の仮想的な現実空間かもしれない。例えば、鑑賞者が向き合う目前の作品が、実はゲームの風景から描かれているとしたら、鑑賞者は絵画空間を歩いていたのと同じように、現実空間によせて疑似的に設計されたゲーム空間(x, y, z)を歩いていることになるだろう。プレイヤーは画面内のプレイヤーキャラクターを動かしながら、現実空間のようにバーチャル空間(x, y, z)を歩く。それは、現実よりも光り輝く、高解像度の3DCGであるかもしれないし、また4Kの映像かもしれない。そして、そのゲーム空間が移動制限のないオープンワールドであれば、現実空間、つまり画面の前の自己の身体が、バーチャル空間、つまり画面の中にある、画面の外とは時間と空間を異にするプレイヤーキャラクターの身体にいっそう重なっていくこともある。壁や床、様々な景色が座標空間に(二次元的な画像が三次元座標内に貼り付けられ)配置されている。平面作品の前に立つ、という現実空間、展示空間、絵画空間の重なりの連続に、バーチャル空間(ゲーム空間)が加えられる。鑑賞者は展示空間に立ち、プレイヤーの位置に重なり、バーチャル空間の中に入る(没入する)。
4 ゲーム内空間
もし、ゲームが1人称視点であれば、それはプレイヤーがバーチャル空間に入る(没入する)ことをより効率的に促すために設計されたものである。こうした設定がなされているのは、むろん現実空間の座標をゲーム空間に重ねるエフェクトが強められているからにほかならない。例えば、ゲーム空間内の1人称視点を用いて、プレイヤーがカメラのファインダーを覗くように、任意のタイミングで写真を撮影することのできるモードがある。それは、未来の都市、あるいは太古の村など、さまざまな時代や地域を想起させる空間として創造的に設計されたゲーム空間の断面となる。しかし、画面をファインダーのように動かし、画角、焦点距離、絞り(ときに光や風など環境のエフェクト)を調整して写されたシーンは、単にゲーム空間を切り取った記録ではない。特に、数世紀前の西洋を舞台に撮影されるような写真であれば、19世紀のピクトリアリズム(絵画主義)の時代へと遡り、18世紀の風景画の記憶をも呼び起こさせるかもしれない。インゲームフォトグラフィは、ゲーム空間の中に、絵画空間を重ねていくのである。
5 3D空間
多田はバーチャル空間に貼り付けられた3DCGの空間を絵画あるいは平面作品として制作する。ときに、実際に絵筆を動かして写実的に描き、ときに、その風景にあるイメージを造形するのである。ゲーム空間における高解像度の3DCGのリアリティが、絵画空間におけるリアリティへと置き換えられていくが、絵画的なリアリティには、当然、絵具というメディウムが介在する。それはデータではなく、文字通りの「物質」として三次元空間化を引き起こすことになる。通常、絵画空間ならびにゲーム空間(x, y, z)において3D空間がバーチャルな奥行きをもつように見えたとしても、その奥行き(z)は、現実的には画面=平面(x, y)の中に置き換えられている。つまり、絵画およびゲームの画面は現実空間においては厚みをもたない空間なのである。これに対し、多田の絵画および平面作品では、絵具の物質性はバーチャルな奥行きではなく、現実的な「厚み(3D)」を生じさせていくことになる。それは3DCGの3D化とも言うべき空間化にほかならない。
6 シミュレーション
多田の作品において、現実空間をモチーフにした絵画空間のリアリティは、バーチャル空間のリアリティ、そこから再び絵画空間のリアリティへと置き換えられ、さらに、その二次元平面は三次元空間へと厚みを帯びた状態で、物体的なリアリティへと置き換えられる。絵画の表面にはひびが入り、平面作品では板やタイルが造形されている。ひびは、三次元的な厚みにおいて発生する凹凸であり(厚みのない完全な二次元平面では線として表現される)、板やタイルの平面には、その素材がもつ質感=テクスチュアが与えられ、現実空間に向かって、絵画空間=ゲーム空間のリアリティを重ねながら、せり上がってくる。ここで、多田の作品において最も重要なのは、モチーフがバーチャル空間であることではなく、インゲームフォトグラフィの時点では視認できたであろうゲーム空間は、絵画空間に置き換えられ、その情報源=ソースをゲーム空間や絵画空間、ひいては現実空間であるのかどうか、を視覚的に判断することができなくなる、ということである。それは、確かにジャン・ボードリヤールがシミュレーションと呼んだ「実在」と「空想」の差異をなし崩しにしてしまうハイパーリアルである。
7 アートワールド
こうした多田が重ね合わせていく空間には、様々なコンテクスト、すなわちアートワールドとの接続点が散りばめられている。木目をトレースし、異なるイメージの出会いを求めたシュルレアリスムのデペイズマン、あるいは巨大な絵具の面を表すカラーフィールド・ペインティングや、ドリッピングやポーリングで塗料を飛び散らせるアクション・ペインティングのような抽象表現主義、さらには絵具とレディメイドを組み合わせたネオダダのコンバイン・ペインティングをも想起することができよう。しかし、美術史を遡れば、こうした表現は、一点透視図法を解体し、風景や静物を様々な角度から小さな面に分解して絵画平面に再構成したキュビスムにおける、絵の上に直接、木目模様の壁紙が貼り付けられたコラージュ(パピエ・コレ)という、20世紀美術における大きなパラダイムシフトにたどり着く。それは、平面である絵画空間が現実空間の厚みに向かって飛び出した瞬間にほかならなかったからである。絵画とは絵具でできた平面であるが、現実空間に存在する物質でもあるのだ、と。多田の平面作品においては、床とも、壁とも、見ることができる木やタイルが同一平面において接合されている。ゲーム空間においては床も壁も座標空間に配置されたデータであり、画面を通して存在する平面=画像なのであった。ゲーム空間と絵画空間の重なりがハイパーリアルとなって、コラージュの根本問題である切断と配置を表出させているのだ。
8 現実空間
多田の絵画および平面作品が現実空間にある。ここまで、展示空間、絵画空間、バーチャル空間、ゲーム内空間、3D空間、シミュレーション、アートワールドと、現実から仮想現実、そして複数の座標空間における視点の移行を行なってきた。最後に、現実空間において、目前にある多田の造形物はすべて絵具でできている、という事態に触れる必要がある。もし多田の作品をキュビスムより以前、かつて目前の対象を絵具でカンヴァスに描き、二次元の平面に三次元の奥行きをつくっていた時代の画家たちが見れば、その絵具がまったく異なった三次元性の獲得に用いられていることに驚くだろう。現実空間(x, y, z)にリアリティを生み出すために三次元的な量塊(凸)となる特殊造形の立体面が、二次元平面にリアリティを生み出すために三次元的な奥行き(凹)をつくり出す絵具の物質性によって、この現実空間に存在している、ということ。そして、現実空間と絵画空間の境界面=インターフェース上で絵具が、ひび割れ、傷、汚れ、テクスチュアの凹凸をつくり、イリュージョンを生み出しているのである。それは絵具のかたまりなのだ。物質は時間を共有する。が、しかしその絵具のテクスチュアは、時間を撹乱する。それは、正確にはイリュージョンではなく、エイジングのリアリティなのである。数世紀前の西洋で用いられた門扉がある。鑑賞者はそのシミュレーションを、ゲーム空間、あるいはテーマパークの中で見かけたことがあるかもしれない。多田は実際に使用されていた実物である数世紀前の西洋の門扉を取り寄せ、型取り、絵具で複製し、それに斧で裂け目を入れる。そして、その裂け目から、光り輝く蛍光色が現れる。絵具は、二次元世界に対象を可視化するのと同様に、三次元世界を立体的に造形するプラスティック(plastic=造形的、創造的、可塑的)なものとなる。それは二次元と三次元の間から世界を具現化するメディウムなのである。
直線を引く。続いてもう一本、その線に直交する直線を引く。さらに、それらの二つの線に直交する直線を引く。すると、座標空間にx軸、y軸、z軸ができる。多田圭佑の作品がx軸、y軸のつくる平面にあると仮定して、z軸上に自分自身の立ち位置のある空間を思い描いてみる。
空間の認識は、自己の認識でもある。自分がどこにいるのかという問いは、自分が誰なのかという問いにつながっている。空間の中の位置は、そのまま自己の位置ともなる。近代的な自我は、座標空間の中心である原点Oと重なっているのだ。Oは“origin”であり、(x, y, z)の座標上で(0, 0, 0)の位置となる。
多田の作品はそうした座標空間自体を複製し、幾重にも重ね合わせているようである。そうであれば、それを認識する自己の位置もまた複製され、幾重にも重なり合うことになるのだろうか。
この位置への問いは反復される。積層した空間において。ここで、展示空間、絵画空間、バーチャル空間、ゲーム内空間、3D空間、シミュレーション、アートワールド、そして現実空間という、空間=キューブを一つに折り重ねる空間を思い描いてみる。x軸、y軸、z軸に直交するもう一つの次元において。多重化する現実のなかで空間のありかが問われている。多田の8つの空間=キューブは別の空間へのつながりではなく、自己の位置、すなわち原点Oの多重性を問うているのだ。